写真:http://www.imrevolting.net/tag/william-coperthwaite/
「人の手に削られてきた道具ほど美しい芸術作品はない」
そう語るのは産婦人科医の吉村正先生です。
ご縁があって2度ほど招いて頂いた吉村医院には、手作りの茅葺き屋根の離れがあって、その庭では妊婦さんたちが毎日、斧を高く振り上げて重心を落とし、ストンと小気味良く薪を割っています。
古民具の収集をされている前院長の吉村正先生がこだわった空間のそこここに、農作業に使われてきた何百年も前の農具や、欠けを接いで大切に扱われてきた骨董の湯呑茶碗などが飾られています。
使い込まれた鋤(スキ)や鎌、斧。そこには、人の手と、時間が産み出した独特の存在感があります。
陽を仰ぎ、風を感じ、星を読みながら、大地の恵みを得るために人々が太古の昔から営んできた農業。そこで使われてきたモノ言わぬ道具たち。。。用途に応じて、暮らしのなかに溶け込んできたその洗練されたシェイプ。
ひとつひとつのものを見つめていると、不思議と感謝の気持ちが湧いてきます。農業に従事したことのない私にまで、感謝の気持ちを沸き起こさせる圧倒的な佇まい。見事だなぁ。。。と感動せずにいられません。
ひとつ、斧にまつわることで、「行きたい処には、無理をしてでも足を運ぼう!会いたい人には、たとえ迷惑に思われても会っておこう!」そう強く感じさせられたことが近年ありました。
それははじめにふれたウィリアム・カッパスワイトさんのことです。釘を使わない建築家として、また、木工アーティストでありナチュラリストとして世界的に知られたWilliam Coperthwaiteさん(http://en.wikipedia.org/wiki/William_Coperthwaite)は、 日本で作られた斧を長年愛用していました。
そのウィリアムさんが、2013年11月に交通事故で亡くなったのです。
彼の「hand made life~in search of simplicity~」という本を、シーカヤック仲間の御夫妻に初めて見せて頂いた時、「なんて美しいヤート!絶対いつか行ってみたい」と強く思ったことがまるで昨日のようです。
ウィリアムさんが日本の斧で作りあげた手作りの自宅(yurt)は、メイン州の北、カナダとの国境に近いMachiaspotという町の近郊にあります。ウィリアムさんの存在を私に教えてくれた日本人夫妻は、これ以上車両の入ることができないという地点から、標識も目印もない森の小路を一時間歩いてウィリアムさんの家(ヤート)をはるばる2度も訪れたといいます。
その運命の訪問を通して、ウィリアムさんのこれまでの足跡やライフスタイルを日本の人々に広く知ってもらいたい、と奔走してきた彼らも、がっくり肩を落としています。それは、ウィリアムさん愛用の斧を作ってきた高知県(檮原市)に28代続く鍛冶屋の影浦さんとて同じこと。
日本の斧をこよなく愛し、自分の作品づくりの相棒として使い続けてきたウィリアムさん。ハーバード大学の教育学博士でもあった彼は、肩書に書き切れないほど多彩な活躍をした方なのに、肩書きを外した一人の人間として森に住むことを選び、自分なりの生き方を実践していました。
そんな彼に生きているうちに一目でもお会いしたかった。。。
生きているウィリアムさんのエネルギーを直接感じることはもうできない。。。
そう思うと切ない気持ちでいっぱいになります。ただ、彼の遺した作品たちは、今でも、生きた木のぬくもりを通して、ウィリアムさんのこころとからだが知っていたことを私たちに伝え続けてくれている。そう思うようにするだけで、人が土に還り、大地の滋養となり、やがて若木となるような円環的なイメージにやさしく包まれます。
彼の残した本の世界と、自然に溶け込む宇宙船の様な家の佇まいは、未来を切り開いていく若者たちにとって、これからの時代にこそ、大自然との調和に在る“美”を知る道しるべであり続けることでしょう。
そして、その美に触れることによって、人が人としていかにシンプルに生きていくか、突き詰めていった時、現代の出産シーンの在り方を再考するきっかけにすらなるのではないかと私は感じているのです。
冒頭の吉村医院に戻りますが、古民家を移築し、古いものに新しい命を吹き込んで出来上がった吉村医院の産屋(うぶや)を前にすると、柱について、梁について熟知しているからこそ、産み出せるカタチがあるのだ、と思います。
何にでも言えることですが、それぞれのものにはそれぞれの力があります。
木の本来持つ生命力。
人の本来持つ命を産む力。
そこには、普遍的な美や調和といったものすら宿っていて、根っこはきっと同じところに在る。
そんなことを感じながら、ひと足先に旅立ったウィリアムさんを、会ったこともない方なのに、
とても身近に感じています。