生まれたばかりのベビー!ブリティッシュスタイルのかわいいバラ柄ファブリックに囲まれてスヤスヤと眠れる森のお姫さま🌹です。その傍らで、赤ちゃんのお母さん、Iさんにお産体験を振り返って頂きました。
今回VBAC(帝王切開後の経腟分娩)を体験した彼女は、「高齢出産だし、前のお産で切ったから、安全のためにまた切らなければいけないかな」と思い、計画帝王切開を予定していました。
そんな中、妊娠もいよいよラストステージに入ったころ、私はIさんに、今一度、自分が本当はどんなお産をしたいのか考えて頂きました。映画、本などで学んで頂くだけではなく、これまで頑張ってきたご自分をたっぷりとねぎらってあげながら少し涙を流して浄化して頂いたり、お腹の赤ちゃんに話しかけていただいたりと、静かな時間をご一緒しました。
そんな心身の内側に湧いてきたラストミニッツの気づき。その気づきに支えられて、とても素晴らしいお産をした彼女は今、「計画帝王切開から自然分娩に切り替えて本当によかった!」と充実感でいっぱいです。「助産師さんにも褒められるくらいのすごくスムーズなお産だったから、こういうことが実はできるんだよってみんなにも勧めてあげたいな」そう語るIさんの表情は春の日差しのようにやわらかく光り輝いていました。
ただ、おっぱいを与える度、特に乳汁が溢れ出てくる瞬間、不意に表現しがたい悲しみに胸がいっぱいになるとのこと。それを単にホルモンのせいとだけ片付けないアプローチに沿って、少し時間をとってIさんに思いを巡らせてもらいました。なぜなら、ホルモン分泌の仕組みを理由にすれば、産後を乗り越えていくうえでより楽なのですが、それだけだと、起こっている事態に対して、少し機械的な解釈になってしまうことがあるように思うんです。
ホルモンのメカニズムを知っておくことは知識としてとても大切ですが、同時に、心情的に自分の感じているものにも寄り添ってあげて、しばらくの間そっと自分のうちに広がるものに耳を傾ける時間をもうけたほうが、のちのちの子育てのリソースとなっていく気がします。
それにIさんの場合、お話を伺っていた私には、何か特別な気持ちの深まりが彼女の根底にあるように思われました。
~「慈悲」って、なんで‘悲’という感じが入っているのかな。。。~
授乳を通して私たちは、生まれたての小さな体の中へ、その子が大きく育っていくためのエネルギーを注ぎます。赤ちゃんの心身を成長させる創造のエネルギーの源が母乳です。そんな圧倒的な生命エネルギーの塊のようなものを放出しつつ、その一方で感じる漠々とした寂寥感はなんなのだろう。。。
「確かにしんどいことも多い授乳ですが、捉え方によってはお乳を与えている間、お母さんたちはキリスト教のマリアの‘慈悲のこころ’とか、仏教で‘色即是空’といわれる境地を垣間みるのかもしれませんね。」なんて私が言うと、お母さん方のなかには、「それ、すごく分かります」、「授乳って深いです」などと頷く方がいます。
連綿とつながる命の循環に、赤ちゃんを産み出すとともに自分も乗っからせてもらい、安堵感を感じる。その反面、不意に突き放されたように、広大な宇宙に取り残されてしまったような、砂塵にも満たない自分と我が子の存在が無性に虚しく感じられたり、場合によっては、人間の定め、悲しみといったものを瞬時にして、言葉を超えた体験として感じることがあってもおかしくないのですよね、きっと。
個人的な話になりますが、私が一人目を産んだのもやはり春でした。当時は、桜が咲いても感極まって涙が流れ、散るのを眺めてもその美しさに悲しみを感じ、涙をこぼしながら授乳していました。それは10年以上経っても、まるで昨日のように思い出されます。
そう、「沙羅双樹の花の色、なんだなぁ」と授乳の度に感じ入っていたわけです。ちょうどその当時、私は毎日新聞のウェブ上で一年以上にわたり連載を書かせて頂いていました。その時の抜粋が以下の文章です。ちょっとだけ手直しをしましたがここに載せますね。
「窓越しに、濡れそぼる早咲きの桜が見える。せっかく咲いたのに、もう容赦なく冷たい雨に打たれているのだから、自然はなんと厳しいものかとあらためて思う静かな午後。傍らには産まれて3週間になる娘がかすかな寝息をたてている。
桜が雨粒に洗われている同じ時、この家ではちいさな体が深い眠りにおちている。訳もなく、このふたつの出来事に何かつながりがあるように思えて、一瞬、まじまじと娘の寝顔を見つめてしまう。桜だけではない、何を見ても、すべてがお互いに関わりをもち、刻一刻と宇宙が呼吸をしているように感じられる。
今までの人生、たいていの出来事ではこそばゆくて口にするのがためらわれた言葉だが、こういうことを‘しあわせ’、なんて呼んでもいいのかもしれない。
もう少しあたたかくなったら父の墓参りへ行こう。行って、「孫を抱きたい」と、昨年のちょうど今ごろ、この部屋で冗談まじりに言っていた父に報告をしなければ。
あの日、私の押す車椅子のなかから父がポツリと「来年も桜見れるかなぁ」、そう言って花びらに手を伸ばそうとした。「お父さんったら何言ってるの。もちろん来年も一緒に見ようね」、すかさず元気な声で返したけれど、ガトゴト揺れる尾根道を上下する骨ばかりの背中がかすんで見えなくなった。あの時、死とは、去年までここにいたものが今年にはいなくなることだと思っていた。
けれど、父が死に、私は身ごもっていると知った。流れた季節の分、確実にお腹は膨らみ、そしてこの春、父の血を継いだあたらしい命が誕生した。
死は死ではない。命は、見事に今日もめぐっている。」
と、読み返して恥ずかしくなるくらい感傷的な文章を臆面もなく書いて、今ほどインターネットが普及していなかった時代に新聞社のウェブサイトを通して全国発信し、産後ママのおセンチぶりを曝け出していたんです。ご興味のある方は、当時の連載に手直ししたコンテンツを今後アップしていく予定ですのでどうぞお読みになってみてください。
さて、Iさんに話を戻すと、お宅の玄関ポーチにはハーブや小さな花々がそよそよと春風にのって咲いています。ガーデニングが大好きだというIさんの作業を、小さな指先がお手伝いに加わる日はそう遠くありません。
眠れる森の新生児ちゃんと、春の日差しをまとったIさんの笑顔と、次々に顔を出すお庭のお花に見送られて、私はとても大事なことを共有させて頂いたような喜びに満たされて帰途につきました。
これからもIさんのようなママさんを地道にサポートしていけたら嬉しいな、そんな元気をいただいた今朝の訪問でした。
ーーー追記ーーー
「毎日新聞インタラクティブ」に私が17−18年前に書いていた妊娠ダイアリーの連載を音声にしました。次のURLから視聴できます。
https://www.himalaya.com/ja/player-embed/1745389
生活スタイルが大きく様変わりしていく今の状況下で、妊婦さんは今後、思わぬ流れで自宅で産むことになってしまう方もあるかもしれないと思い、もしもそうなった場合に備えて、実際に家で産んだ経験談を読んでおくと少しだけでも参考になるかもしれないと思い、思い切って音声で復刻させることにしました(2020年4月)