フランスよりメメント・モリ

お元気ですか、フランス在住のLOVEドゥーラAkikoです。じゃじゃ馬コロナ姫はまるで溶岩のようにじりじりと世界経済を融解し、一見フリーズさせてしまいました。

経済に超疎い私のような人間でも世界のママ友と交流しているとCovid19による経済的打撃をそこはかとなく感じざるを得ません(我が家はイギリスではシュタイナー校だけでしたが、アメリカ、ロシア、フランスと子供たちはインターナショナル校なので国籍がざっと40か国くらい異なるママ友がいます)。

世界のママたちから伝わってくるのは、不安、怒り、戸惑い、焦り。。。

大変な思いを抱えているのは日本のお母さんたちだけではないんですね。

というか、日本人のお母さんがすごいなって思うのは、怒りをあらわにしないところです。

西欧の方々はけっこうストレートなので、不安感というよりもっと強い感じ、そう「恐怖感」とか、政府や市への対応に対する反感など剥き出しだなあと感じます。

でも感情をありのままに放出する方が溜め込まないでいいのかもしれませんけどね。

海外に20年も住んできた私としては、有事における日本人の順応力には驚かされるばかりです。賞賛する一方で、女性、特に子育て中のお母さんにしわ寄せがいってないか心配になっちゃうことも。もし頑張りすぎていたら、お子さんにもお母さんの抱える不安の波動が伝わりますから。日本の新聞やネットのニュースで日本における産後うつや幼児虐待のニュースを目にし、気が気ではないのは私だけではないはずです。

いきなり飛躍しますが、人生の成功ってなんでしょう?

この自粛期間、飛躍的に内面の革命が起きた方もあれば、今まで外側がうまくいっていた方ほどカッチーンと凍りついてしまったのではないかなと思います。

私もこの週末、あらためて時間をとって瞑想をしながら自分自身に問いかけてみました。日課となっているオーガズミック ケア(自分のフェミニニティーを活性化するお手入れ)をして、そこから瞑想タイムへとつなげて自分自身を見つめてみました。

横たわって、カラダの7つのチャクラを通すようにして、第1&第2チャクラの間にエネルギーがゆっくり溜まってくると、あまりの安心感と心地よさにいつも寝落ちしてしまいます。

この時も、雲の上にそっと横たえられたような感覚になり、そのまま一瞬す〜っと眠りそうになったけれど、頭のどこかではちゃんと目覚めていました。

この日の瞑想で再確認したことは、一言で表現してしまうなら、分かってはいたけれど、自分にとって成功とは、いつも「モノ」ではなかったということ。

具体的に言うと、

「私にとって成功とは?」

と自問し、瞬時に浮かんだイメージが、なんと「死」でした。

「あ、抜けた」と思ったところから始まりました。

怖かったり、切なかったり、肉体を手放す直前までは断末魔の苦しみがあるとは思いますが、イメージが始まったのは、すでにそこを超えて、死んだ瞬間からでした。

ひゅ〜っと肉体から抜けて、「やけに軽いな〜何着てたんだろワタシ?」と思っている自分がもう、ひゅるひゅる〜っと。

そうなんだ、自分ってここまで自由自在でシンプルな存在なんだよね、なんて感じている。感じるというか、安堵感というかありがたさにただ満ちている。



その境地でちょっと驚いたのは、その時、まったく執着心がなかったということ!大切な家族のことも、愛する人たちのことも、大事にしているクリスタルたちのことも、離別について抵抗感がなかったんです。

でもそれは、離れるというか、逆に、自分がそれらの一部にもなっていくような感覚もあったので、寂しさなんか微塵も感じないからなんですね。

でも焦りました。

待って待って!まだ生きているこの世界での「成功」についてフォーカスしていたのに、いきなりなんで死後なの〜?と。。。

この次元に上手く生きていけてない私みたいな根っからの変わり者は、やっぱり仕方がないか、とも納得。昔からなんでも額面通りに受け取ってしまう真面目な一方で、どこか破壊的で、単純で、変な子だったよなと走馬燈のように振り返るわけです。

破壊と再生の神シヴァではないけれど、怒ると野生の狼のように大変な熱量で表現し、おさまっていくと今後は、その全熱量を傾けて再生のステージへ猪突猛進。そのループで瑞々しくも実に荒々しく今日まで生きてきてしまいました。

もし、女性に寄り添うという今のペルソナがなかったら、私は多分、男性性が強すぎて、女性のカラダを持て余し、人生つまずいていたと思うなあと感じたり。

そして冷静に自己分析すると、私は自分には能力がないにもかかわらず、周りに支えてもらう幸せな社長タイプらしく、様々な方々との貴重なご縁、目に見える物質的なもの(経済)や、見えないもの(守護)にずっと護られてきました。

幼い頃から物質的に欲しいものが手に入らなかったことがないという恵まれた人生を送ってきました。

でもそれらは、いつも周りから与えられてきたものばかりでした。


そんな苦労知らずのせいか、無邪気で、残酷で、存在しているだけで知らず知らずのうちにお相手を傷つけてしまっていることもあったかと思うんです。

言い換えると、他の人たちが掲げているような成功はバランス良くすべて周りから施してもらっているせいで、自力で立ち上がろうとしている方々の苦しみや葛藤に深く寄り添えていないことも多々あったのだと思うんです。

そんな甘ちゃんの私が「成功とは?」とあらたまって自問したわけですから、

「そんな貴女では生きている間には、決して成功は存在しえないよ!
なぜなら貴女は全てにおいて既に日々成功し続けているんだよ。
まずはそこに気づきなさい!」

って言われたような気がするんです。でも初めてじゃない、既にずっとずっと知っていたような気がするんです。求めているものは自分の中にすべて詰まっているって、6年前のブログ←にも振り返ったら書いていました。

すべてのものから離別しながら、同時に融合していけるのが死。

そう「死」をとらえ直したら、なんというか。。。そうか、「死」は究極の成功体験なのだと思えました。

つまり!逆に言えば

生きているだけで究極の成功体験なのだと今回実感できたわけです。

今ここでこうして息をしていることも、あちら側で息をしていないことも、少し投げやりな語調だけれど、どっちでも別に構わないことであり、同時に「最大の関心事」である、そんな境地です。

最後の息を吐く瞬間まで関心を持ってこの人生を生きていくけど、生きているか、死んでいるかなんて、究極的にはささやかな差異に思えてきます。

父が亡くなったのはもう18年も前のこと。にもかかわらず、父は生前よりもずっと力強く私の背中を押し続けてくれていますし、ずっと前に召された愛する祖父もいつも私を信じてくれている気がします。


これは、今日これを書いていて振り返ると、自分自身を女神として扱うオーガズミック ケアを実践してきた成果とも呼べます。「見た目だけの成功」ではなくて、根源的な揺るぎない成功に繋がっていると感じられます。

家族のためとか、学校のためとか、仕事のためとか、今も情けなくていろいろ取り繕いたい自分もいますが、それだと長い目で見て化けの皮が剥がれてしまうというか、肉体とのバランスがとれなくて、自分で自分を苦しめてしまいますからね。

どんな素晴らしいことを言っても結局は肉体という器を持っていますから。

だから思うんです。心身のバランス取りって本当に大切だなあと。

まずはとにかく自分への計らいを丁寧にできていると、
たぶん、すべてはうまくいく。。。

たぶんね(笑)。

だから今、それをこの人生を使って実験させてもらっているんだと思います。

拙い長文をお付き合いくださりありがとうございました。

LOVEドゥーラAkiko














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