さずかり婚のゆくえ

どんなカタチでも、起きることしか、
人生起こらない。

人にどう思われようとも、
気にする必要なんて全く、ない。

それが、その人たちの
在り方であり、

これが、私たちの
在り方。

それだけ。

That’s it happily.

いいじゃないですか。
喧嘩ばかりしていた彼との
間に赤ちゃんがきてくれて。

そのまま慌ただしく結婚へ突入。
私からみたら、最高だな〜と思います。

すべては最善!

というようなショートメッセージを
この声のブログでしゃべっています♪

#木村章鼓
#LOVEドゥーラAkiko

第26回 女たちが祈ってきた道

「ボン・カミーノ!(よい巡礼を!)」

復活祭のパレード

レオンでは、ちょうど復活祭のパレードが行われていた。

ガイドブックの写真ではKKKのようでちょっと怖いなと思っていたのだが、実際に近くで見ると、とんがり帽子がかわいらしい。

だが、楽団の奏でる旋律はどこまでも厳かだ。

いよいよ祈りの道、エル・カミーノに来ているのだ、という臨場感がある。

旅の最初に、初めて徒歩の巡礼者を見た時は、感動して思わず車を路肩に寄せ、その後姿をカメラにおさめた。

その中年男性は、雨がっぱを足首まですっぽりとはおり、木の杖を右手に握って歩いていた。

大きなバックパックには、紐で吊り下げられたホタテの貝殻が揺れている。

これこそ、典型的な巡礼者のいでたちだ。

ハカという街の近郊にあるサン・ホアン・デ・ラ・ペーニャの修道院の売店で、私たち‘巡礼者もどき’も、さっそくホタテ貝の表面に朱で十字の刻まれた巡礼者の「印籠」を手に入れた。

バックパックに速攻で吊るして巡礼者のマインドセット。

なんでもまずはカタチから入った方がいいものだ。

それ以降、レストランや教会でホタテ貝を見た地元の人々や巡礼者たちから、「ボン・カミーノ!(よい巡礼を!)」と声をかけられるようになった。

それまでは声をかけられなかったので、やっぱりホタテを首から下げたりして目に見えるようにすることは大事なことなのだ。

赤ちゃんを身籠れますように、という祈り

放射線状のラインがシンボリスティックな貝は巡礼の目印。こうして聖水をそそぐ器もホンモノの貝(それにしても巨大)に銀細工をほどこしたもの。〉

聖水をそそぐ器もホンモノの貝

その昔、子どもがいなくて悲しんでいたスペインの王妃がその場所を訪れたとたんに赤ちゃんを授かったという不思議な言い伝えの残るバシリカにも足を運んだ。身籠れますように。。。

ああ赤ちゃん。。。女たちが時代を越えて祈りを捧げる場所は世界中にあるが、このバシリカにも、赤ちゃんを身篭るということは、人智を超えた領域だとあらためて感じさせられる、静寂と慈悲のエネルギーに満ちていた。

青空を仰ぐ人たち、抱き合って号泣する人たち

ホタテ貝が光の放射状とだぶっているデザインの標識

写真のように、ホタテ貝が光の放射状とだぶっているデザインの標識が、約数十メートルおきに立っている。

巡礼者が道に迷わないための大切な目印なのだ。

私たちは車を停めて、短い区間だったがちょこちょこ歩いた。

娘は5分も歩くと疲れた〜と、夫におんぶや抱っこをせがんでいる。

途中で、赤ワインのワイナリーが点在しているリオハ地方ではワイナリーがお布施ということで巡礼者にはタダで赤ワインを振る舞っている。

私はそれこそ赤ワインを何杯も飲んで、煽って、ナッツなどのスナックを食べながらすっかりいい気分になって歩いた。

何100年も、この道が存在していて、

その道を今、こうして歩かせて頂いている。

しかも、飲みながら!!!

極楽極楽

そうやって私たちは巡礼街道の要所に立ち寄りながら、通りすがりの教会と修道院でひと息をつきながら、そして最後には、前回の冒頭にも書いたとおり、ひどい吹雪に見舞われながら、10日ほどかけてサンチャゴの街に到着した。

こんなにズルした旅であっても、「ついに来たか。。。」としみじみ思った。

車でさえここまで感動できるのだから、いわんや徒歩だったとしたら。。。

しかも2、3ヶ月かけて全行程をもし歩いたとしたら。。。

一体どれほどの感動に包まれるのだろうか?

サンチャゴの大聖堂の前では、多くの巡礼者たちが木の杖をゴロリと傍らに投げ出し、石畳の広場に寝転がって青空を仰いでいた。

女子大生とおぼしき3人組は抱き合って号泣している。

みんなそれぞれに‘想い’があって、人生のどこかの地点でこのエル・カミーノを歩くことに決めた人たち。

彼らは、なにか大切なものを見つけられたのだろうか。

まずは相手に飛び込んで、ともに体験する

道端で休む巡礼者たち

写真は疲れ果てて道端で休む巡礼者たち。こういう姿を一日何回も見かけた

深い想い。。。

そこだけをとってみれば、

この私だってそうだ。

サンチャゴへの道程を肌で感じて、

宗教を越えたところにある人々の祈りのエネルギーを体感できればと思っていたのだ。

多神教の島国からきた私にとって、基本的に一神教の西洋社会には、なかなか理解のできないことが多い。

しかし、短い旅であっても、こうしてエル・カミーノの一部をなぞらせてもらい、その大元である彼らの世界観というか、宇宙観に触れさせてもらうと。。。

目の前の巡礼者たちを通して語りかけてくるものに純粋にひれ伏したい気持ちが芽生える。

宗教や文化、言葉が異なっても、

まずは相手に飛び込んで、ともに体験するダイナミズムは、私のなかの西洋社会に対する疑問や謎を、ある意味、一気に吹き飛ばしてくれた。

そのあとに私が見つけたのは、自らを大いなるものにゆだね、静かに祈る人間の姿は、最も美しい私たち人類のカタチだという、ごくささやかな再確認だった。

次号に続く→

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

お読み下さりありがとうございました。

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ちなみに↓今住んでいるフランスから生涯免疫、細菌学、遺伝学について、ちょっと偉そうにYouTube動画撮りました(すみません)。動画編集してくれているのは、この時の娘っ子です。今度のお誕生日で17歳!❤️宜しければチャンネル登録してご視聴くださると嬉しいです♪

第10回 土足文化と私のケミストリー


ドロだらけの靴のままソファーでジャンプ!?

たまにカーペットそうじの業者さんが入るけれど、いつもかなり汚れているカーペット。

上の階のラブラドールのポリーがいつも泥だらけで駆け上がってくるので、基本的にこの内階段は外と同じ感覚で生活している。

よそのお宅に招待されて、靴のまま足を踏み入れることに、まだまだ強い違和感を感じる。

ここスコットランドも、ほかのヨーロッパの国々と同じように、靴の文化。

『郷に入らば郷に従え』だと思って諦めようとしても、そう簡単にはいかない。

なんとか自分の家だけは土足厳禁にしているけれど、保育園や娘の友達の家で、ドロだらけの靴のままソファーを跳ねる子どもたちを横目に、“不衛生だな~”と思ってしまう毎日だ。

そんな抵抗感をまわりに気づかれないように、わざとおおらかな人間のように振舞ってしまう自分もいるから、やっかいだ。

赤ちゃんを路上に寝かせて・・・

先月もこんなことがあった。

一緒にブランチをした仲間のスコットランド人ママは、生後4ヶ月のかわいい赤ちゃんを抱えていたのだが、レストランを出たところで、彼女は自分のスポーツシューズの靴紐がほどけていることに気がついた。

その瞬間である!!!!

結びなおす間、私が抱っこしてるからとこちらが手を差し伸べるまでもなく、彼女はごく自然に赤ちゃんを路上に横たえたのだった。

旅行カバンでも置くように、さらりと我が子を道に下ろす母!

赤ちゃんの髪の毛が道路に着く。

私は思わず絶句した。

そして、この感覚の差だけはどうしたって、たとえ何年ここに住もうと、自分にはぜったいに越えられないであろうことを再確認したのだった。

何も言えない自分

そんな時でも、『あ~あ~なんてひどい!!!汚れちゃうじゃない可愛い赤ちゃん』と胸のうちではつぶやけても、相手に伝えるのはものすごく難しい。

あまりに一瞬の出来事で、反応のしようがないというか。。。

すでにショックで動揺しているし、加えて、自分はこの国での価値観や習慣についてとやかく言える立場ではないという思いが、喉まで出かかった言葉を呑む。

赤ちゃんが歩道に横たえられていたのは、ほんの一瞬だったはずだが、私にはとても長く感じられた。

無言のまま、一体私はどんな顔をしてその場に立ち尽くしていたんだろう。。。

彼女が靴紐を結び終わり、我が子を抱き起こして立ち上がると、そこには何もなかったように先ほどまでの会話の続きが展開されていく。結局なにも言えなかった自分に、なんとも言えない居心地の悪さが残る。

越えられそうもない壁

道端にゴロリと寝そべる若者を見かけることもあるけれど、そんな時も、日本のジベタリアン(もう古い言い方?)なんてカワイイもんだとつくづく思う。

ジベタリアンは、道に座り込むのは好ましくない行動だと知りつつ座っているからだ。

ご覧ください。また見つけたスコティッシュ版のジベタリアン!

こちらの若者ときたら、あどけない笑い声をカラカラとたてながら牧歌的な雰囲気を漂わせて寝そべっている。

まるで大草原にでも転がっているようだ。

あまりにも自然す、ぎ、る。。。

そこに、決して越えられない壁を感じる。


言い換えれば、私って日本人だなーとあらためて自分の居場所を確認するときでもある。

その壁(違和感)こそ、文化の違いなんだと思うと、ある時は壁になり、ある時には魅力そのものとなる異文化を体験できるのは、苦労も多いけど貴重なことだと思う。

この『違和感』や『拒否反応』をいつまで保ち続けられるのだろうか。

外国人にとっての「麺をすする音」

日本人より日本語の上手な英国生まれのピーターバラカン氏が、以前どこかのラジオ番組で、数十年日本に住んでいても麺をすする音だけには体が反応してしまうというようなことをこぼしていたが、わかる気がする。

スコットランドに来て以来、4ヶ月が過ぎて、そんなことを少しずつ考えはじめたということは、逆にかなりの部分で、私たちの生活がスコティッシュ化されつつあるということの裏返しなのだ。

知らず知らずのうちに、何かが自分のなかで変化していっている。

土足うんぬん以外のことは、さらにどんどんスコティッシュ化が進んで、いつのまにか日本人としての感覚が分らなくなってしまうんじゃないかと感じる今日この頃である。

そのひとつに、『食べ物』についてがある。

次回は、ここでの食事をみてみたい。

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お読み下さりありがとうございました。

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