結婚から出産 

- ドゥーラとの出会い -

husbandその後、同じように旅好きな地層調査の会社に勤める夫と出会い、退社して結婚。オマーンやマレーシアにも移り住みました。移動ばかりだった私たちが日本勤務に戻った頃、ようやく30歳で私はお腹に赤ちゃんが訪れたことを知ります。産み方を選択していく上で、イタリアで感じた素朴な気持ちが私の中に再浮上しました。

「お産はとても重要だから、不必要な医療介入だけは何としてでも避けたい」

そう私が強く思った根っこは、ボランティア時代にボローニャの施設で見聞きしてきたことがベースとなっています。現在では、秋田大学など、日本でも広く分娩障害についての研究が進んでいるようですが、調べれば調べるほど、病院などの施設を、赤ちゃんを産む「環境」として選択した時点で、不必要な医療介入を受ける率がハネ上がることを知っていきました。さらに調べてみると、陣痛誘発剤の投与率、会陰切開をうける率、産後のうつ病を発症する率など、さまざまな側面で、母体にとってマイナスな点がどうしても気になり出しはじめました。

私は、初めて地元の総合病院を訪れた日から、数十冊以上の本に目を通し、人に会い、話を聴き続けました。よいタイミングで、必要な方々に出会い、導かれていったことは本当に幸運でした。そうして、2回目の検診日には、医師に、自分には自宅分娩の希望があることを伝えました。それまで国際人のはしくれとして生きてきたなかで、何事も自分自身で確かめてみない限り、言われていることや慣例とされていることを鵜呑みにするのは危険だという認識がありました。マジョリティーの方向に流されなくてもいいんだ、という感覚もありました。ドゥーラの存在もこの時に知りましたが、まだ当時はドゥーラの看板を掲げて活動をしている方は日本にはいませんでした。

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pregnant妊娠期間中は、ホームバースへのこころとからだのセッティングを「家で産みたいよ」というタイトルで毎日新聞のウェブに連載させて頂き、気づいたことを毎週書き綴っていきました。私と同じような立場で、自宅分娩をしようかどうか迷っている方がいれば、少しでも参考にしてもらえたら嬉しいと思って書いていましたが、新聞のウェブ展開が始まってまだ間もない頃だったせいか、とても大きな反響があり、多くの方にバーチャルに励まされながらお産を迎えることとなりました。

それはとても心強かったのですが、やはり、実際の現場にあっては、頼れるものは自分だけ。自分自身がリソースそのものにならなくてはいけないという状況に直面しました。ベテラン助産師さんや夫の助けも、もちろんそこにはあるのですが、最終的には、

「まわりに頼っていても、この子は産みだせない。今、ここで、この陣痛と直接対話できるのは自分なんだ!」

という状況を体験したのです。振り返ると、あの時のお産体験が、そのまま今日の私をかたちづくってくれました。自分が自分にとっての最強のリソースになりうると実感できると、世界観ががらりと変わります。

baby2女性は古来より、お互いをサポートし合って命を産み繋いできました。そのことが、頭ではなく、こころとからだでしっくりと感じられるようになると、人がお互いを本当の意味で支え合うということは、個人を超えて、はるかな地球の未来にも関わることだという広がりを感じるようになっていきました。同時に、こころのどこかにひきつれ感や、目に見えない傷を抱えた方には、産むまでの間にできる限り癒されておいて欲しい。。。そのお手伝いができる仕事に私も就きたい、と思い始めたのでした。

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◆幼少期から大学入学まで - 私を形づくったもの-

◆大学時代 - 旅のはじまり –

◆ヨーロッパ線で世界の空へ - 世界を巡る旅へと –

◆結婚から出産 - ドゥーラとの出会い –

◆ドゥーラとして - しあわせな妊娠・出産のために –