ドゥーラと助産師さんとの微妙な関係

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イギリス在住30年の助産師Mさん。看護師としての経験も長く、助産師になってからも15年以上臨床で活躍されてきた働くお母さん。そのMさんが現在お勤めしているのは、ロンドン北部にあるNHS(イギリスの国民保健)病院です。

つい先日ランチをご一緒した彼女から、普段はなかなか耳にすることのない貴重なお話を伺いました。なかでも、私にとって新鮮だったのは、助産師の中には「ドゥーラ」に対して疑問を抱いている方々もいる、という事実です。

Mさんご自身は、ドゥーラが産婦さんに付き添うことによるメリット(ドゥーラ効果)について深く理解されていますし、医学的エビデンスなどもきちんと学ばれていらっしゃる方です。周産期医療の現実を知るお一人として、助産師をはじめとする現場の医療スタッフの人手不足から、ドゥーラがお産に付き添う件数の増えてきている事態を、今のイギリスの周産期医療の大状況として静観されています。

そんなMさんですが、ある仲間の助産師が、「ドゥーラの付き添うお産なら、私はケアしたくない」と発言するのを目撃したといいます。理由は、ドゥーラの付き添うお産では、産婦さんはよりわがままになって、それがお産の進行にそれほど効果的と感じられないということ。

スタッフにとっては明るくないとケアしにくいにも拘わらず、病室のライトを薄暗くしてほしいとリクエストしてきたり、自分と相性のよくないケアギバーの交代を申し入れてきたり、不意にエッセンシャルアロマオイルを嗅ぎたいと言ったり、ベットから降りて床で産みたいと言い張ったり。。。その助産師に言わせれば、きっと言いたいことは山ほどあることでしょう。

Mさんも言います。急いで別の産婦さんのケアを終えて、煌々と明るい廊下から駆け込んでくる助産師にとっては、薄暗い部屋はいきなり真っ暗闇に突き落とされたように感じられて、眼が慣れるまでの最初の数分は、恐る恐る歩かないと、間違って産婦さんの手足を踏んでしまうのではないか、と冷や冷やすることがある、と。

これまでの私はドゥーラとして単にラッキーだったのでしょうか。今までは、看護師さんからも、助産師さんからも、小児科医からも、お母さんご本人からも、つまり、出会うほとんどすべての方々に、ドゥーラの付き添うお産は、付き添わないお産よりも良いものというベースを基にした感謝のメッセージやねぎらいの言葉を頂くばかりで、反ドゥーラ的なマイナス意見を見聞きすることがありませんでした。

ロンドンで活躍する別の助産師さんの話によると、「医師の3割はドゥーラの存在意義に対して懐疑的な意見を持っているかもしれないけど、残りの7割はちゃんと理解を示している、という感じ」とのことでしたので、そうか、お医者さんの中には数割のアンチドゥーラ派がいるのだなと認識していました。

ですが‘助産師’であれば、ドゥーラの存在意義に共感している方がほとんどであると今までは理解していたのです。勝手な思い込みだったかもしれません。でもそれは、助産師の方々との良好な関係を通して肌で実感していたものでした。また、‘産婦さんが望むこと(ドゥーラの付き添いも含めて)は出来る限り尊重して受け入れていきたい’という助産師の方々の基本姿勢を10年以上身近に感じてきた私にとって、ドゥーラとミッドワイフの協働とはお産において自然なこと、いや、それが実際に存在し得ることを体験的に知っていたのです。

そのうえで、これまでひとりのドゥーラとして、産む女性たちと出会い、お産について勉強して頂き、助産師と産むことについて学んで頂き、お手持ちの選択肢を知ってもらい、助産の大きな懐へと最終的に導いてきたつもりです。

ですが、今回のようなお話を個人的に伺ってみて、別の視点からみると、ドゥーラは、施設内勤務の助産師の現場の働き方にどのような影響を与えてきたのだろうか。。。と思わずにはいられません。今回のMさんのお話は、大病院で苛烈に働く助産師の立場になって今一度ドゥーラを眺める大切なきっかけとなりました。

余談ですが、Mさんの働く病院に現在ケアを求めてやってくる妊産褥婦の中では、ルーマニア国籍の方が確実に増えてきているそうです。この一年間は、彼女の勤務する病院では、実に33%、つまり三人に一人がルーマニア人の妊婦さんだったとのこと。ルーマニア人の妊婦さんたち全員とは言わないけれど、多くのお母さん方は、産褥パッド、赤ちゃんの産着やオムツ、毛布すら持たずに(すべてNHSが支給してくれると期待して)入院してくるのだそうです。

また、お産の数は増えているのに、それらをケアするために十分な人数が足りていないNHS側の現実も大きな問題であるとMさんは指摘します。このような事態が今後も続くと、NHSの持てる人的、物質的資源が枯渇してしまうのでは、、、という危惧を抱く声は日々、病院内外であがっているそうです。

UKへの移民の流入が止まらない中、『まるで時限爆弾を抱えながら周産期医療に従事している』と嘆く現場の危機感を訴える声に触れると、個々の施設の抱える内情を知らずに、私たちが医療消費者として、一方的に不平不満を言うことはできなくなります。

ちなみに、ONS(イギリス政府の統計)によると、UKに流入した移民は、2015年の一年間で82000人増えたそうですが、実際に、ルーマニアとブルガリアの移民だけで、50000人なのだそうです。これは、2014年より19000人増えている数だということで、いかにルーマニア・ブルガリアからの移民が爆発的に増えているかが数字からも伺えます。

以上、今号もまとまりのない文章になってしまいましたが、ドゥーラを受け入れられないケアギバーがいるという見識を得たので、ご報告でした。「アンチドゥーラ・ミッドワイフ」がイギリスにほんのわずかであれ存在することを知り、なぜこのようなミッドワイフ━ドゥーラの関係が存在するのかについて、さらにいろいろと学んでみたくなったので、また別の機会に書いてみたいと思います。

男性助産師の存在について from London

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毎日新聞のウェブサイトに連載を書かせて頂いていた12年前(Oct2003-Nov2004)、私は自分の中の『男性助産師に対する抵抗感』をハッキリと、また、かなり辛辣に述べてしまった記憶があります。私の書く文章は、当時は産み手としての感覚が前面に出ていたために、男性助産師に介助されることへの個人的な拒否感や、リラックスしていれば放出されるはずのホルモンが出にくくなるリスクなどを書き連ねたのです。

男女平等を謳う現代の先進国では、理屈に合っていても、感覚的には消化しきれないいろいろなことがあります。例えば、男性助産師の存在も、私にとってそのようなものでした。パートナー以外の異性の存在自体が分娩の自然な進行の大きな妨げになるのではないか。見ず知らずの男性の前で、産婦の命の道は無理なく開いていくのだろうか。ただでさえ医師は男性が多いのだから、助産師まで男性となると、男性主導的な空気に満ち満ちてしまうのではなかろうか。個人的な主観として、男性が助産師として介在することはあきらかに不自然な人的セッティングではないだろうか。。。などと感じてきたのです。

いみじくも時を同じくして、2003年のイギリスのガーディアン紙ウェブ版(http://www.theguardian.com/lifeandstyle/2003/may/14/familyandrelationships.nhs) には、その頃まだ100名程しか存在していなかった男性助産師をめぐる記事が掲載されていました。その中のある産後女性の言葉が印象的です。‘私はいつしか彼が男性であることを忘れていました。そのくらい、私にとって真に寄り添ってくれる誰かがいるということは、その人間が男性か女性かであることよりも出産にあっては遙かに重要だったのです’という趣旨のインタビューです。

UKで男性助産師が正式な現場デビューを果たしたのは、今から30年以上も前の1983年。イギリスは世界に先駆けて実験的な試みをしてきた『進歩的』な国なのです。

一方の日本では、助産師国家試験の受験資格者は女性となっているので、2015年の今でも、あらかじめ女性にしか門戸を開いていません。日本では産み手側が声をあげ、日本各地のお母さんたちが署名運動を展開して、男性助産師の誕生を阻止しようと奔走してきた歴史があります。

こんなことを書くと誤解を招いてしまうかもしれませんが、一般的に日本には、欧米と比較して、『論理性よりも五官で感じるものを大切にしてきた』歴史や国民性があるように私には思えます。私自身が日本人なので、偏りのある意見かもしれませんが、20年近い海外生活を通してよく感じることです。日本は、欧米のように、論理的な思考が求められる場に遭遇する回数が少なくて、楽だなあ、と。1から10まで理路整然と逐一説明のできることもあるけれど、グレーゾーンは必要があってグレーなのだから、白黒ハッキリとしなくても、その色のままでいいのかも、と思っている私のような何事に対しても曖昧な部分だらけの人間にとって、言葉を論理的に積み重ねていく欧米のものの考え方はしんどく感じることもあります。けれども同時に、新しい価値を切り開いていく力があるとも感じるのです。

だからこそ、日本と同じように(女性の)助産師と産み手側による反対運動があったにもかかわらず、この国は最終的に男性助産師を導入しました。The Sex Discrimination Act (男女性差別禁止法)のような法制が、1975年の時点ですでに整っていたUK内では、あらゆる職業において、性差を超えて平等を追及する機運があったのでしょう。確かに、分娩を診る産婦人科医は男性が多いのだから、助産師の中にも男性がいて当然だ、という考えは理解できますが、当時の私には懸念がありました。

職業上の性差別という先入観を抜きにして考えてみると、男性助産師とは、産む女性とその赤ちゃんの健康のために女性の助産師に遜色なく貢献できるだろうか。。。具体的にケアの受け手にはどんな恩恵があるのだろう。。。ましてやAIMS(産科医療消費者センター)のあるような国で、男性助産師をケアギバーに選択しない女性がまだまだ圧倒的に多いなか、男性助産師導入以降、この30年余り現場はどのように機能しているのだろう?産み手の選択の自由はどのくらい守られているのか?できれば現場で男性助産師の生の声を聞いてみたい、彼らはどんな想いで働いているのだろう?そんな好奇心のような気持ちが私の中に消えるともなく、燃え上がるともなく、ずっとありました。

そんな私の長年のこだわりを少し溶かしてくれるような出来事が、つい先月偶然起こりました。慶応大学の先生方と看護学生12名を、ロンドンの大学病院の産科病棟&バースセンター視察にお連れした時のことです。案内役を引き受けて下さった知り合いの助産師さんと産婦人科医の先生が、「男性助産師が今日いるよ」と教えて下さったのです。急きょ、その方を呼んで頂くことになりました。

顔では笑顔を繕おうとしていても、内心ドキドキしながら彼と握手をした私。今までの抵抗感が強かった分、正直、ちょっと後ろめたい気分です。続いて、慶応の先生方、学生たちが次々に挨拶をして、いたって和やかなムードのなか、みんなで記念撮影などをしながらも、私は男性助産師のヘスース氏に、今までたずねてみたかったいくつかの質問をさせて頂きました。

「男性助産師として限界を感じることってありませんか?」「どんな時にやりがいを感じるんですか?」「今までに断られたり、拒絶されたりしたことは?」などと、突撃レポーターのような辛口な質問は私の口から勝手に飛び出してしまいます。申し訳ないと思いつつも質問をさせて頂き、そのひとつひとつにヘスース氏はとても丁寧に、またパッションを込めて答えて下さいました。

ヘスース氏の返答を要約すると「確かに、母乳育児指導では限界を感じることがある。そんな時は周囲とチームで診ているので別の人(女性)に頼めるから、乗り越えているのだとは思うが、確かに、男性であるというだけで最初から受け入れてもらえない部分は、ある。でも、今まで長年スペインとイギリスで仕事をしてきて、頭から拒絶されたことはほとんどない。もちろん、あらかじめ男性助産師が嫌だという妊婦さんは受け持たないので、自分がケアする相手は基本的に男性助産師であってもよい、という人たちなので、そこのところは引き算して考えないといけないけれど、大抵みんな好意的ですよ。特に、パートナーが父性を開花させやすくする媒介者として、自分が関わることがとてもプラスになっていると実感できることがある。そんな時は、これこそが僕の使命、生かされている!と感じます」というような内容でした。

が、私はそんな彼の言葉よりも、50代とおぼしき彼の放つキラキラとしたまなざしのほうに圧倒されていました。というか、完全に引き込まれてしまいました。ああ、こんな気持ちで現場に立っている男性助産師がいらしたんだなーと驚き、自分の中の認識を新たにしたのです。

人は見かけでは判断できない、そう頭で分かっていても、なかなか実際には難しく、無意識のうちに、相手をジャッジしている私たちがいます。でも、考えてみると、LGBTの世界的ムーヴメントをみてみても、男性として生まれ、女性として生きる決断をした男性や、その逆という人々が今や20人に一人の割合で存在している世の中ですから、そういった観点からも、自分の中の無意識の差別や間違った認識に気づくことは大事なことだと自戒しました。

ところで、2014年の11月に書かれたテレグラフ紙の記事(http://www.telegraph.co.uk/men/thinking-man/11202075/No-job-for-a-man-Meet-the-male-midwives.html)を読むと、現場で働いている男性助産師は103名(女性の助産師は31,189)となっています。意外なことに、この12年ほどの間、ほとんど男性助産師の数が増えていないのです。なるほどニーズがやはり少ないのだな、、、と思わざるを得ません。ましてや移民の多いイギリスではイスラム教徒は宗教的な理由から男性助産師は選ばない。そう思うと、『進歩的』な国の今後の『選択の結果』から目が放せません。

おしまいに、『助産師』の英語の呼称「midwife」について。語源は、13-14世紀にはじまる「midwif」にあり、この「mid」とは、「with ~とともに」や「付き添う」といったニュアンス。そして「wif」とは「女性」を示すそうです。つまり、『女性とともにある女性』が、本来のミッドワイフが包含する意味なのです。古来から求められてそこにあった存在。それが、どの時代にも、どのような場所であっても、人が在る限り、助産師であったと思います。今では時代とともにドゥーラの仕事が独立して行われるようになりましたが、基本的に助産師とは、すでにドゥーラでした。そういう広い視点からは、最も古い職能のひとつとしてドゥーラ、助産師があったというのは確かなことでしょう。

統合療法の訳書がこのたび出版されました♪

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ぜひ読んで頂きたい本が先月出版されました。

「こんなにいい本が日本語で読めたらいいのにね…」というウィリングヘム広美さん(心理セラピスト)が中心となって、彼女とふたりで1年以上かけて子育てと仕事の合間に少しずつ訳してきたものです。表向きは心理セラピスト向けの専門書なのですが、一般の方にも読んで頂ける分かりやすい内容になっていると思います。ようやく生まれてきた~という感じで、私にはとっても可愛い赤ちゃんのような本です。

新刊書籍:
「自己変容をもたらすホールネスの実践―マインドフルネスと思いやりに満ちた統合療法」 星和書店
ご興味のある方はこちらをご覧いただければ幸いです。

この本はハコミセラピーのアプローチを基本としています。

「ハコミ」という言葉をお聞きになったことはありますか。一瞬、日本語のように感じられるのですが、実はアメリカの先住民族のひとつ、ホピ族の言葉で、「日常の様々な側面に対して、あなたはいかに参画しているか?(How do you stand in relation to these many realms?) 簡単に言い換えるならば、「あなたは何者か?」という意味を持っているそうです。

ハコミセラピーとは?:日本ハコミ・エデュケーション・ネットワーク 

まだヒューストンに居た時、Gregory Gaiser先生によるハコミセラピーのワークショップを受けたことがあります。ドゥーラとして参加し、彼のワークショップで学んだことは、日々の仕事にとても役立っています。この世のありとあらゆるすべてのものがあらかじめ繋がっているのを前提として、目の前のお相手のあるがままを信頼して受け止める。自分自身を、相手の一部として、また目の前で展開していることの環境として、己を全体の一部として含めてしまうことで、少しずつですが、すべてが必要な在り方で瞬時瞬時に機能していると分かっていきます。 起こるプロセスをあるがままに見守るためにはじっと耳を澄まさなくてはなりません。そこにおいて、相手との一体感と同時に、拡張していくような意識の広がりを常に感じるようになっていきました。

アメリカ人開業助産師さんと共に立ち会ったある方のお産では、夜半、空を覆っていた雲が晴れて、浴室の天窓からちょうど月が見えはじめました。「月も見てるよ」と私が言うと、頑張っていた産婦さんは間歇期に月を仰ごうとしました。顎をあげるためにバスタブから身を起こす彼女。顎をあげると産婦さんの気道が伸び、しっかり呼吸ができるようになります。しばらくして元気に赤ちゃんが生まれてきました。「後から振り返ってみても、その過程が何か仕組まれたように、精妙な宇宙の理に沿って起こっていたとしか思えません」、彼女は自らのお産体験を振り返ってそう語ってくれました。

「起こるすべてのことは何かの糸で繋がっている」という認識が、産婦さんにもケアギバーの中にも備わっていると、今までは見過ごしていた何でもないことがすべてリソースに思えてくるから不思議です。その場に居合わせた誰かが「あ、月」と気づく。産婦さんがからだを起こしたら、停滞していた何かが抜けたように楽になり、深呼吸とともにもうひと踏ん張りするエネルギーが湧いてきた。そんなひとつひとつの出来事を科学的に検証しようとしたら意味をなさない些細な事象の絶え間ない連なりが、お産においては大事だとつくづく思います。喜怒哀楽の混じりあったおびただしい数の体験が積み重なったひとりの人生における、あるひとつの体験の完了として、「安産」という言葉があり、それはまた産後の時間と継ぎ目なくつながっているのだ、という視点が生まれます。

例えばその延長で、感知の方法や視点が微妙にずれることで、医学的には難産と呼ばれるようなお産であっても、本人にとっては「安産」と呼びたくなるものに変化していくものもあるんです。または、それまで不幸に思えていたことが、人生の問題を解く突破口を見つけるための強力な手がかりとして働くことだってあります。

理詰めの頭で考えると分からないことばかりで不可思議なことですが、簡単に言ってしまうと、今の自分の持てるリソースをもうあと数割、いや何倍にも花開かせる力が私たちひとりひとりに備わっていると信じられるようになっていくのです。

上司と部下、教師と生徒の関係、親と子の間でも、この視点はとても大事だと思います。この本を通して、

根本的な人との接し方、そして自分自身の受け止め方を学んでいくことができるかと思います。

何気ない日常生活を大空を舞う鳥のように新しい視座で俯瞰することで、毎日が癒しと光により満ちたものとなっていきますように。そしてこの本が一人でも多くの方の手に届くことを祈りつつ2014年最後のブログとさせて下さい。米国から英国へ引越し、多くの方々にお世話になった年でした。皆様有難うございました。引き続き2015年もどうぞ宜しくお願いいたします。