この建物が220年以上前に建てられたことを思うと、いろいろなことはすべて納得できるような気がする。
古い建物には、気軽に窓一枚開けられないような物々しさがあって当然なのだ、と。
もし、誰も彼もが、やれ不便だ、危険だと建て替えていたら、この建物だって、今ごろはとっくに存在していないだろう。

バーベル上げの選手の気分が味わえる古ぼけた窓枠への気持ちも微妙に変わってくる。
趣ある街並みがこうして昔のままに残されているのは、古いものへの審美眼が人々のなかに歴然とあるからなのだ。
この価値観から子育て中の私は本当にたくさんのことを学んでいる。
窓の外は、この数週間で劇的に冬から春に移り変わってきた。
目の前のプライベートガーデンの木々が本当に美しい。
たそがれ時、片づけの手をいっとき休めて目を瞑ると、この建物にはじめて移り住んだ主の、いかにも誇らしげにこの窓辺に歩み寄った昂揚感が伝わってくる。
220年前は、ドクターが家までやって来て赤ちゃんを取り上げていたそうだから、この家に元気な産声の響いた日もたくさんあったに違いない。
同時に、天に還る小さな命を見送った日もあっただろう。。。
とりとめもなくそんなことを想像しているだけで、家という空間が、単に日常生活を展開する場ではなく、過去につながることのできるタイムトンネルそのものに思える。
特に昨晩は、怒涛のごとく流れ去ったこの数カ月間を思い起こして、珍しく少し感傷的になった。
なんで私が転勤族の妻として、こんな部屋で今、子育てしているのか?
まるでガラス越しに覗き込む誰か別の女の人生のような気がして不思議な気持ちになったのだ。
古い時代のガラス、波打つ表面を持ついわゆる‘アンティークガラス’越しに
見える景色がセピア色にかすんで見えて、味わうジンジャーワインの味はすごく苦く感じられた。
こんな苦いもの、美味しく飲める日がくるんだろうか。。。
いや、飲める。
「時間がたてば、この家に私も受け入れてもらえる」
‘住めば都’とは、町だけでなく、家の中の空間にも当てはまることなのだ。
子どもと。
慣れない母親業をこなそうとしている私と。。。
娘はどうかわからないけど、
私は一生懸命、この時空間に馴染もうとしている。
夫は仕事ばかりでいないので、ワンオペというか、母娘の協働だ。
それにしても、子どもはありがたい。
子どもと一緒に生活していると、大変ですよそれは。
おしっこ臭くなるし、手でうん◯をキャッチすることもあるし(特に今、オムツはずしの段階的トレーニング中)、あまりに言うことを聞かない時にはついポカンと頭を叩いてしまってズドーンと落ち込むこともある。
私自身が幼い頃から、躾の名の下に体罰を加えられてきて非常に苦しんだから、それを自分がしてしまう時には本当に死にたくなるくらいにまで落ち込んでしまう。
それでも、場所も時間も超えて素敵な気づきが子育て中はいっぱい起こるのは確か。
先日、北部の街アバディーンへ2泊3日の旅をした時もそうだった。
街一番の目抜き通りを娘と2人でぶらついていると、子どもたちの弾けるような笑い声がする。
2歳になる娘が『どこから聞こえてくるのかなぁ』とキョロキョロしながら歩いていくと、それはなんと、大通りに面した教会の墓地から響いてくるのだった。

教会の裏庭にあたる墓地には、年代ものの墓石がズラリと立ち並んでいる。1630年とか、とんでもない時代にまで遡る墓石もある。
その墓石群の間を這うようにしてつくられた小道(写真)で、4−5歳くらいの子どもたちが数人で追い駆けっこをしていたのだ。
え〜墓石に子ども!?
なんで追いかけっこ〜!!!!
その組み合わせに一瞬ギクッとしたが、よく見てみれば、親とおぼしき大人たちが数組、少し離れたベンチに座って傍らのゆりかごを揺らしながら楽しそうにくつろいでいる。
ぐるりと墓地全体を見回してみると、いたるところに備えつけられたベンチでは、カップルが気持ちよさそうに日向ぼっこをしていたり、スーツ姿のビジネスマンがサンドイッチをかじっていたりする。
そう、それはまさに『公園』の風景なのだ。
写真のように子供たちが走り回っている↓

もしも苔むした墓石群が彼らの背後にそそり立ってさえいなければ、どこにでもあるありふれた公園の昼下がり、にしか思えない空気感。
私はポーンと異空間に飛ばされたような気分になった。
そして次の瞬間、私たちもその光景のなかに入っていた。
娘が子どもたちに向かって走り出したのだ。

『こら待てっ!』と娘を慌てて追いかけても、あっという間に彼女は子どもたちの遊びに加わっていた。
ま、いっか。バスに乗り遅れても。
そう思った私がため息をつきながら近くのベンチに腰をおろすと、隣に座っていたおばさまが、『元気そうな子だねー』と買い物袋をガサゴソさせながら笑った。
苦笑してから私は、思い切って自分の感じているこの場所に対する、なんとも言えない不思議な感覚を彼女に身振り手ぶりで伝えた。
すると、そのおばさまはこちらの予想もつかないことを言うではないか。
『墓を見てると、ふだんは考えないことを考えない? みんな誰もがいつかは死ぬの。こんなふうに古ぼけた墓を見上げていると、昔や今やこの先のことをふと立ち止まって考えられるから、私はとってもいいと思うの。あなたはこのお墓をみて何を思う?』
そう逆に質問をされて、私は答えに窮した。
確かに、おばさまの言うとおり、お墓を眺めていると、その下に埋葬された人が一体どのような人生を送ったのだろうといつのまにか想いを廻らせてしまう。
私自身が子育ての真っ最中だからかもしれないけれど、いかに有名だったかという現世的な成功より、その人物がいったいどんな幼少期を送ったのだろうかといった、よりプライベートな個人史のほうに想像が膨らむ。
この墓石の下に眠っている人は、大人になってどこで誰と、一体どんなふうに廻り逢い、どんな気持ちで親になったのだろう。。。子どもは何人いたのだろう。。。
そして今、自分は人生のどのあたりにいるのだろう?
墓石の間に見え隠れする娘の影を目で追いながら、今の自分の位置感覚を知りたいという願いが突然、閃光のように頭をかすめる。
限られた『人生』という時間のなかで、私はきちんと『今』をキャッチして生きているだろうか。
過去に囚われたり、未来が怖くて進めないでいるんじゃないか。。。
急におばさまがスーパーの袋をつかんで立ち上がった。足元の鳩がびっくりして飛びのいた。
『大変!もうバスが来るから行かないと。お話しできてよかった、じゃさようなら』
人の気持ちを根底から揺さぶる問いを残して、彼女は足早に墓地を去っていった。
娘は墓石の脇から顔を覗かせて、クククッと笑い声を立てている。
娘よ。
なにがそんなに嬉しいんだろう。
小さな天使は、母が『お墓公園』に迷い込み、予期せぬ時間旅行を体験することをあらかじめ知っていたのだろうか。
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