ピンポーンと鳴ると犬が激しく鳴いて私は身構えた。
動物は大好きだがハウスダストやアニマルアレルギーなど、過敏症である。
程なくして開いた扉からニュッと出た顔は、キャプテンクックのように、片目が眼帯で覆われていた。赤いズボンに紺色のポロシャツ、ステッキを持っている初老の男性。
人を見かけで判断してはいけないと思ったが、私は自分が少し緊張しているのを感じた。
驚くほど大きな声で、その男性は『ハロー!!!』と言った。
その声で娘が起きた。
私はそのわずか数秒で、この男性には父親になった経験がないことを悟った。
奥から、エプロンで手を吹きながら、メガネをかけた女性が顔を覗かせたので私はホッとした。彼女は内縁の妻、エリザベスさんだった。
石鹸を手渡すと、『では失礼』と階段を降りようとする私を彼女が引き留め、『よかったら眺めを見て行って』、と言う。
なんということ!
3軒目のご招待だよっ!
この国では家を見せるのが礼儀なのだろうか?
それとも、私、警戒されているのかな?
それとも、人受けしすぎの性格なのかな?
とにかく、私にはよく分からない。
断るのが失礼なのか、
断らないのが失礼なのか、
インターネットがあれば、挨拶まわりの前にいろいろググっただろうけど、入居から2週間もたつというのに、いまだ電話もインターネットへの接続も、ない。
自分のカンで出たとこ勝負で振る舞うしかないのだ。

私は、ここで断って後悔するよりも、お誘いに乗らないで後悔する方が悲しいと思い、潔くお邪魔することにした。
先ほどの犬はポリーいう名の黒いラブラドール。
眼帯の男性はアリスター氏。内縁の妻エリザベスさんと二人暮らしでお子さんはいない。
なんでも、エリザベスさんはアンティーク時計の修理工房を営んでいるらしく、『グランパクロック(おじいさんの古時計)』とか、『グランマクロック(おばあちゃんの古時計)』と呼ばれる振り子のついた時計が部屋にもあった。
アリスター氏はアンティーク収集家で、部屋中に絵画や彫刻が並んでいる。
重厚な家具の数々に、由緒正しそうなパイプのコレクション、部屋中まさに足の踏み場もないのに、ラブラドールのポリーはスルスルとその間をうまくすり抜けながらお気に入りのラグの敷いてあるあたりへ移動する。
これでもかーと骨董品が押し込められた部屋の真ん中には、大きなガラスに入った戦艦の模型があった。
それも木で出来たもので、かなりの年代物だ。
アリスター氏は、テストの時間と言わんばかりに私を泳がせる。
自由に泳がせているようで、監視されているような。。。
どう振る舞い、何を言うか、試されているような気がして仕方がない。
壁に鎮座した版画の連作を指差して、これは。。。で、とても有名な。。。などと、
一つ一つをしごく丁寧にウンチクを述べていくのだ。
それが、痺れを切らすほど長い。
私の方に知識がないから、話をそらそうにも上手く誘導できない。
と突然、私の内側から、
『私は、母だ!』
という小さな声が聞こえてきた。
瞬間のことで、小さな声は書き消えてしまいそうだった。
でも、声は大きく次に聞こえた。
『この人に嫌われても構わない。あきこ!自分を出して!』
私が育児街道まっしぐらの母親で、版画の収集なんて今の私には関心がない。
そんな版画のことよりも、起き出してぐずっている娘をなんとかしたい。
同時に、
『よくもさっきは娘をデカい声で起こしてくれたわね〜』
そして、よくもまあ長々と骨董品の説明を。。。というアリスター氏への想いが湧いてきてしまったのだ。
次の瞬間だった。
『I am not interested in art (アートには興味がありません)』
と彼の瞳をじっと見つめて私は言っていた。
気まずい空気だった。

エリザベスさんも驚いたようだった。
でも、なんとなく私の中の何かが警告していた。
この人のペースにハマったら、この先暮らしにくくなるよ〜ん、と。
ピロロロ〜という直感らしきものが伝えるものが、私をいつも助けてきてくれた。
今日もそれが発動したのだ。
はっきりと言い放った後、慌てて私は『でも、素敵なお二人に興味があります。今後とも良き隣人としてどうぞよろしくお願いします!では!』と伝えて、にこやかに退室した。
なんという不遜な態度!と自分でも呆れるが、このおかげで、後日談だが、アリスター氏とエリザベスさんとは仲良くなってしまった。
さてさて、まさにごったがえしの毎日だ。こまごまとした手続きのために市役所や日本領事館、不動産屋、郵便局などにでかけるため、午後中はほとんど家にいない。
最も困っているのは、日本のスタンダードとこちらのスタンダードがずいぶん異なること。
リフォームを終えたばかりで住み始めたというのに、インターフォンや給湯器が動かなかったり、窓枠が壊れているせいで、毎朝のように誰かしら訪ねてきて、トンカントンカンやっていくことが多いのだ。
そのせいで、荷ほどきが思いのほか遅れている。

日本からの荷物でひとつ残念なことは、ダンボールを開けてみたら、CDコンポと畳マットの縁が破損していた。
畳は保障対象外、CDコンポについては保険が100ポンドおりるということなので、新しいものをここで買うしかないか。
そんなとある夕方、スリングのなかで眠ってしまった娘と、パン屋の紙包みを小脇に抱えた私は、重たい鍵を開け、足を引きずるように帰宅した。
果たして、空のダンボール箱は巨大な山となって部屋を占領し、無造作に積み重ねられた本の脇には、梅ぼしの瓶がゴロリと転がっている。
ああ頭痛!
愚痴っていても仕方がない、それは分かっている。
でも急に情けなさがこみ上げてきた。
外国なのだから、生活が落ち着くまでにはハードルがたくさんあって当たり前なんて今日は思えない。
家のつくりのせいで、リビングの開口部は基本的に開けられないとか、娘だけが階段にいる状況をつくらないようにするとか、いろいろな制約がある。
ああ、日本の家が恋しい。
梅干しをひとつ口に放り込んで、私はしばらく泣いた。
なんで悲しいのか、理由はよく分からない。
ただ疲れていて、
ただ気が張っていて、
ただ誰かに甘えたい。
今はただアーンアーンと泣きじゃくるからね。
ごめんね。
そんな気持ち。
それにしても、泣くって凄い!
涙が本当に出てしまうと、あとは本当にすっきりする。
泣きながらも、一体何百人の人たちが過去220年間にこの部屋で私みたいに泣いたんだろう?と思っている自分がいる。
このタイムマシンに乗っているような感覚はなんなのだろう。
人生とは、泣き笑い、である。
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